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小林一茶(こはやしいっちゃ)≫ 

 結城勝人(ゆうきかつひと)はドラム型洗濯機の前で読書に耽(ふけ)っていた。先月自宅の洗濯機が故障してから土曜日の朝に一週間分の洗濯物を持って近くのコインランドリーへ向かうのが習慣になっていた。
「早く洗濯機、直さなきゃなー」結城は呟く。
 ドラム型洗濯機は軽やかな円運動を繰り返し、シャワシャワと心地好い音をたて、快適なリズムで洗濯物を洗っていた。洗濯物はドラムの回転に合わせて逐次落下を繰り返す。

「あっ小林(こはやし)先生、小林先生ですよね?」「あっホントー小林さんだー」ふと顔を上げるとコインランドリーに入って来た女子高校生の二人組みが結城の顔を見て騒ぎ出した。
「あっサイン下さーい。うーんとちょっと待って下さいね」背が高く髪の長い子が自分の鞄の中をゴソゴソして、出してきたのは小さなメモ帳のようなノートだ。表面はビニル製だが一応ホックがついていて開かないように留めることの出来る構造になっている。ホックを外し開くと中には小さいな写真が一面に貼り付けてある、よく見るとそれはプリクラであった。
「お願いします。サイン」彼女は最後のページを開くとピンク色のボールペンを添えて結城の目の前に差し出した。
「え?サイン?」結城は何のことか分からない。
「サインって僕のサイン?何で…僕のサインを…」結城が口篭もった。
 結城はゲームソフトの商社に勤めるサラリーマンである。人事担当であり求人活動で高校に出向く事もあったが女子高校生からサインを求められたことはないし、求められる理由も皆無であった。『それにこの子たちが口にしている《こはやし》って…』
「でも小林一茶(こはやしいっちゃ)先生ですよね。」背の低い彼女が話した。彼女の髪は見事な茶色だった。
 結城はそこで絶句した。「小林一茶ー」それは《こばやしいっさ》をもじって彼が高校時代によく使ったペンネームである。《小林》を《こはやし》と濁らずに読み《一茶》を漢字そのままに《いっちゃ》と読む。このペンネームでラジオ番組に頻繁に投稿した記憶がある。今で言うラジオ職人である。
『でも、もう20年近く前のことだし、彼女達が知るわけがない。仮に彼女達の両親が偶然聞いたことがあったとしても、私の顔を知ってるわけも無いし』…結城は懸命に最近ちょっと鈍ってきた頭の回転数を上げた。
「《こはやしいっちゃ》って言うふざけた名前の人が私なの?」結城は思い切って聞いてみた。
「ぷっ。何を真面目な顔でトボケたことを言っているんですかー」茶髮の彼女は言う。
『しかも私が投稿していたラジオ番組はFM三重だ。ここN市でも聞けなくはないが、そんなローカル局をわざわざ聞く人がそう大勢いるとは思えない』…頭にターボを利かせて思考したが全く見当もつかない。
「もうイイです。」二人は一人でぶつぶつ言いながら考え込んでしまった結城を見て、プリクラノートを鞄にしまって奥のほうに入って行った。
あっちょっとー」と呼び止めようとしたが、既に二人は乾燥機の陰に隠れて見えなくなっていた。

 結城は1時間ほどで洗濯を済ませて自宅に戻った。部屋に入ってタバコに火を点けながらさっきの女子高生の言動が再び考えていた。『《こはやしいっちゃ》か懐かしいなー』タバコを持った手を口につけたまま煙を吐く、丁度掌で煙を包み込みニコチンの香りを手に馴染ませるようにタバコを味わった。
 タバコを3本も費やして仮説を立てた。
 FM三重の誰かが昔の投稿ハガキを気に留め出版した。しかし出版する前に結城に一言断って来るはずである、ペンネームで投稿していたが本名も書いていた。『そうか実家か、親が勝手に承諾したか』結城は早速実家に電話をした。
 結城は掻い摘んで今朝のことを話し、続けて自分の仮説を話し、その連絡は入ってないか聞いてみた。母親は笑いながらそれを否定した。「そんなことあるわけないじゃない、もしも、万が一そんな連絡が入ったら一番に連絡するからー。人違い人違い、そんな下らんこと考えてないで早く再婚しなさい。」
「あっそう、はいはい、分かりました。それなら良いよ、はい、じゃね」また再婚の話に話題が移って行きそうだったのさっさと電話切った。

 次の日曜日、特にする事もなく部屋の掃除をしたあと、近くのホームセンターに蛍光灯を買いにいった。掃除の最中に廊下の蛍光灯の切れているのに気がついたのである。車を駐車場にとめ、買い物を終え車に乗り込もうとドアに手を掛けた瞬間、すぐ前方にとめてあった軽自動車から20歳前後の女性が3名降り、手に色紙を持って駆け寄ってきた。
「小林先生サインしてくださーい」「写真を一緒に撮らせてください」良く見ると一人の子は手にデジタルカメラを持っていた。
「あのーすみません。小林先生って何をした人ですか?」結城は今日は最初から、この謎の現象の追及モードに入っていた。
「ご自分のことを…何言っているんですが、小林先生にこんな場所で会えるなんて…私幸せです」一番若く見える女性は何故か俯きがちに言った。
「でも何で色紙持ってるの?僕がここにいること知らないよねー?」結城はフト疑問に思い聞いてみた。
「あっ実は私達いつも色紙持ち歩いてるんです。」カメラを持った子がすぐに答えた。
「実は何故キミたちが僕のサインを欲しがるのか、分からないんだ。サイン何て書いた事もないんだ。」結城は素直にそう聞いてみた。
「あっそうですね。まだサイン完成してないんですね。しかたないですよ、突然ですものね爆発的に売れ出したのはー」カメラの子が言った。
 空かさず結城は「何が売れ出しの?」っと聞いてみた。
「また白ばくれちゃってー。イイです、今日は諦めます。今度会うときまでにサインの練習して下さいねー」カメラの子はそう言って車に戻る。他の2人のそのあとに付いて車に乗り込む。車はすぐに走り去っていった。
「うーん。何か変だな、今度会うときっていつだ?」
 そのあと結城はコンビニに立ち寄って弁当を買ったが、またその駐車場でサインを求められることになる。しかし核心部分、『何が売れてるのか、何故キミたちは僕のサインを求めるのか』について聞こうとすると話が曖昧になった。
 3回目である。『やはり僕の知らないところであの投稿ハガキが出版されたのかも知れない』結城はそう考えて帰路にはずいぶん遠回りであったが本屋さんに向かった。ベストセラーのコーナー、新書、あるいは雑誌に掲載されたということもある、その辺りの雑誌コーナーにも目を配らせたがそれらしい書籍も雑誌の記事も見つからない。店の人に尋ねるにも何をドウ聞けば良いのか分からない。

 家に帰った結城はレポート用紙を取り出し、サインペンを使ってサインの練習を始めた。《小林一茶》そのまま書くと江戸時代の俳人である、結城はその下にローマ字で《 Kohayashi Iccha 》と書くことした。あまり字の旨くない結城である、レポート用紙だけでなく、古い新聞折込広告の裏など使って何度も何度も練習した。コンビニで買って来た弁当を食べる間も惜しんで練習している結城の顔は喜びで満ちていた。

 翌朝、深夜までサインの練習をして寝不足のはずなのに心地好い目覚めであった。新聞を取りに玄関を開け門扉に備え付けられた、郵便受けの新聞を抜き取った時。
「朝からゴメンナサイ。サイン欲しいんだ〜」
と女の子の声がする。結城が顔を上げると中学生だろうか、制服を着た少女が玄関先に立っていた。
「あっ、おはよう。僕のこと知ってるの?」
「うん、小林先生でしょ。サイン下さい。」彼女は色紙を差し出した。
「良いよ。」結城は色紙とサインペンを受け取り、深夜まで練習したサインを初めて書こうとした。しかしその時、結城は考え込んだ、書けない。つまり机の上に紙が置いてないと書けないのである。仕方なく壁に色紙を押し付けて書いた。一番最初のサインはまさしくミミズが這った様な文字が色紙上に踊っているサインであった。

 自分でも大失敗と思ったが、女の子も一部始終見ていたし書き直すための色紙も用意してない、仕方なく…
「ゴメンね、まだ練習中で、こんなサインしか書けなくて…」結城は謝りながらそれを渡した。
「ふーっ」部屋に入ると自然と溜息が出た。
 数秒間考えたあと、昨晩遅くまで練習していたサインを再び書き出した。腕が疲れるとコーヒーを入れタバコを吸い一休憩、会社の出勤時間に合わせて体調不良による欠勤依頼の電話連絡もした。休憩を挟みながら、練習を重ねた。
 結局翌日も体調不良という理由でもう一日会社を休み、一日中サインの練習に明け暮れた。夕方サインペンを買いに近くのコンビニまで行こうと玄関から出て、結城の目は点になった。10代から30代ぐらいだろうか女性ばかり20名ほど、結城の玄関先にいるのだ。ある人はじっと立ちつくし、ある人は近くの人と話しながら、ある人は携帯電話の画面に向かいながら、結城が帰ってくるのを待っていたようである。
 しかし意に反して玄関から出てきた結城に皆一様に驚く。
「あっ小林さんーサイン下さい」「先生、今日は会社おやすみだったんですか?」口々に話しながら結城に近づいてくる。あっという間に結城は女性達に取り囲まれてしまった。「あっ良いよ、一列に並んで、順番ね」結城は練習の成果を見せる時だと勇んでサインをはじめた。2日間の練習で立ったまま色紙を持ってサインすることも習得した。

 明くる朝も心地好く目を覚ました。体調も良好だ、2日間も仮病で休んでいたので多少元気なく出勤すべきだと分かっているが、こみ上げてくる感情を抑えられない。知らずにニヤケた顔になっている自分を自覚する。
 玄関を出ると数名の女性がいた。昨日こともありいつもの出勤時間より30分も前に家を出て、サインに応じた。思っていたよりファンの数が少なく、いつもより2本も早い地下鉄に乗った。
 結城がふと不思議に思ったのは、この事件が発生して初めての出勤ではあるが、家近辺から離れるとサインを求める人は一切見かけないことである。家の前、近くのコインランドリー、ホームセンター、コンビニエンスストア…「何故だろう?この地域限定の情報誌に取り上げられたのだろうか?」。結城は会社の昼休みを利用してインターネットで自分の住む地域の情報誌サイトを検索してみた。ついでに「こはやしいっちゃ」というキーワードで検索も試みたが、期待した情報にはたどり着けなかった。

 翌日も翌々日もほぼ同じパターンだった。玄関先でサイン。帰りは地下鉄駅から家に向かう途中で数人にサイン、圧倒的に家の前が多かった。帰り道途上では不思議と人が少ない時を見計らって寄ってくるような気がした。
 金曜の帰り道、サインをし終わった女性から手紙を受け取る。横長の押し花をあしらった封筒だ、結城はすぐ中をみた。パーティへの招待状であった。すっかり忘れていた明日は結城の誕生日であった。その招待状にも結城の生年月日が記載され年齢も一致していた、只名前は勿論「小林一茶」である。

 翌日の夕方、招待状に記載されている、レストラン「キッチン歩道橋」に結城はめかし込んで向かった。結城の家から百メートルほど離れた場所にそれはあった、丁度目の前に歩道橋がある。安易な名前の付け方だ。
 開催時間は午後6時となっていたが、家にいても落着かない結城は30分も前にお店に到着した。勿論結城はすこぶる機嫌が良い、何か人気者になった気分だった。最初は狐につままれた気分だったが、今はそれを受け入れ心地好く思っていた。それにこのパーティで今回の事件の理由も分かるだろう。ガラス越しに店の中を覗くが暗くてよく見えない。黒い布で目隠しをしてあるようだ。仕方なく扉を開ける。「カランカラン」と扉に取り付けられたカウベルが鳴る。同時にクラッカーの音と「先生オメデトー」の声が響き渡る。 店は表からの見た目と違い随分広かった。50人以上の女性が数個テーブルに分かれて拍手で結城を迎えた。手前には横長の垂れ幕があり、「小林一茶先生の誕生日を祝う会」と書かれていた。
 その垂れ幕の下にあるテーブル席に結城は勧められ着席した。
「定刻にはまだ少々時間がありますが、皆さんお揃いのようですので、そろそろ始めさせて頂きます。」最初に発声したのは、日曜日にホームセンターでデジカメを持っていた女性だった。よく見ると殆ど見覚えのある顔だった。サインを求めて来た人達だ。やはりこの地域限定の情報誌かー結城は推理する。
 会は瞬く間に進んでいった。結城は期待した、何故[小林一茶]を知ったのか、何故[小林一茶]のサインをほしいのか、何故このようなパーティを開催したのか、等々は結局話題に上らなかったし、結城が質問しても、以前と同じようにはぐらかされてしまった。しかし、結城にとって非常に楽しい愉快なパーティだった。何十人もの女性がすべて彼を褒め称えるのである、不愉快な訳がない。核心部分に差し掛かると曖昧にはなるが皆、異口同音に彼のことに好意の持っていることをアピールしていた。

 3時間以上に渡ったパーティがあっという間に終わり、結城は皆に見送られてお店を後にした。ほろ酔い加減で心地好く家に到着した。両手に抱えきれないほどの花束とファンレターの束を持ってー。


 家に着くと一通の郵便物が届いていた。中身はメモリースティックである。パソコンに接続するとソフトが自動的に起動し画面が表示された。
 立派な高層ビルの映像が目まぐるしく切換り、メッセージの音声と同時にテロップが流れた「…愉快集団『喜与会(きよかい)』のサービスは本日で終了しました。なお、このサービスに掛かる全てのご費用はご依頼主『山岸浩二様』より予め頂戴しており、お客様のご負担は一切御座いません。」
 画面が切換り、旧友である、山岸の姿が表示された。
「誕生日おめでとー。ナカナカ面白いサービスだったでしょー。楽しんで頂けましたか?。また会いましょー。」

「何だ………」結城は大きく溜息をつき、ペットボトルのお茶を一気に飲んだ。ペットボトルには、大きく「一」(はじめ)と書かれていた。結城はそれを見て呟く「一茶(いっちゃ)では無いな…」。

… END …