「子供のころの思い出」

tsurinews2005-04-30

先日(もう相当前になるが)のニュースで鹿児島県の小学生が防空壕で焚き火をしていて一酸化炭素中毒で死亡というものがあった。まず驚いたのがまだいまだに「防空壕」が残っているということである。ニュースなどで見聞きしたところでは鹿児島は沖縄に次ぐ本土決戦ということで沢山の「防空壕」があるそうである。通常「防空壕」は隠れて攻撃が終わるまでじっと非難しているために作られたが、ここの多くは隠れていて敵が来たら攻撃するために作られたらしい。そのころ(末期)では兵隊も武器も底をついていたので、女性や子供が「竹槍」を持って攻撃したのである。
悲惨なことである。
だが今日はこの事件が他人事とは思えないので言及する。勿論戦後生まれの私は竹槍を持って戦ったことはない…。
実は子供のころ、正しく小学生のころ「防空壕」(防空壕か只の洞穴だったのか…は定かではないが)を秘密基地だと言って遊んでいた記憶がある、しかも一番奥で「焚き火」を始めた。記憶は曖昧で事実と全く違ったり、大袈裟な表現をしている部分がきっとあると思うのでご了承頂きたい。
その防空壕(只の洞穴かも知れないが、一応「防空壕」で統一)は入り口は1箇所で中で枝分かれしていた。何度も行って遊んでいたような気もするし、その時一度だけだった気もする。(とにかく記憶が曖昧なのです)
どの枝分かれのどの経路を辿ったのかなどは全く覚えていないが、一番奥まで辿り着いたのことは鮮明(というほど確かな記憶ではない)に覚えており、明かりが無いので火を焚いたのだ(懐中電灯など持って行ったと思うが電池の消耗を気にしたのかは失念)。
しばらくその火も燃えていたが酸素が減ってくるので消えたのか?息苦しくなって慌てて消したのかも覚えていないが、火が消えた(消した)ので煙がもうもうとたちこめた。息苦しかったのか煙に驚いたのかも忘れたが一目散に出口に向かって走り出した。障害物など無かったのと、懐中電灯など持っていたのでしょう(と思う)無事出口までたどり着けて友達を「ほっ」としたものだった。
ほとんど覚えていないのだが、無地外に出ることが出来てホントに3人で(確か3人だったと思う)涙を流さんばかりに喜んだ。(本当は思いっきり泣いてたのかもしれない)
しばらくしてその場所を訪れると『立ち入り禁止』の看板と柵で厳重に囲まれた洞穴の入り口があった。
このニュースを聞いて思い出した、曖昧な記憶ではあるが一歩間違えれば私たちはこの世にいなかったのかもしれないと思うとぞっとする体験である。

画像は先週(?)撮影した、那古野市の街路樹。街路樹の全てが分かるサイトって無いのかな〜?