ライブデビュ「山平和彦」

訃報のニュースを聞いて急遽掲載

フォーク歌手はねられ死亡 都内で山平和彦さん
 12日午後8時40分ごろ、東京都足立区西竹の塚の都道交差点で、近くに住むフォーク歌手山平和彦さん(52)が頭から血を流して倒れているのを、通報で駆け付けた警視庁竹の塚署員が見つけた。(共同通信

私は本日の最終目的地へ向かう途中にある彼の家に寄った。彼の家は戦前から残る建物で、苔むしたコンクリートブロック塀で囲まれた平屋だった。小さな庭を埋め尽くした木々が寂れた雰囲気をより醸し出していた。

太陽の可視光線は今この街の地表に対して斜めに降り注いでいた。成層圏をぬけ、自由大気、エクマン境界層、接地層を進むにつれ波長の比較的短いものは乱反射され、波長の長い可視光線が西の空を染めていた。

彼の家の前の細い通りを北に向かうと突き当たりに塚がある。この塚は『月の夜の何を阿古木に啼く千鳥』とその昔、あの「松尾芭蕉」が詠った句碑のある【阿漕塚】である。そこを左手に折れ500mほどでこの街を南北にはしる国道のバイパスに出る。

車道の端を一列になって2台の自転車は北に向かった。15分ほど走っただろうか、二人は大きな交差点を左に折れた。その道は通称「フェニックス通り」と呼ばれ、中央分離帯には南国の街でよく見かける「フェニックスの木」が植えられていた。先ほどまで西の空を染めていた可視光線は地球の陰に入りこの街からは12時間ほど姿を消す事になる。

緊張した面持ちで二人は会場近くの駐輪場に自転車を駐めた。私は彼の持っている荷物にびっくりした、その荷物はオープンリールタイプのテープレコーダであった。

で彼に聞いた「おい、良いのか?そんなの持ち込んで?」
「分からん」彼は短く応えた。「ダメかな?」私に聞かれても困る、その質問には心の中でそう言い、口では「さぁ」とだけ発声した。

一応、そのテープレコーダを隠せるだけの大きな緑色のデニム地のカバンも用意してありその中に押し込んだ。

山平和彦 コンサートオンながつき」と書かれた、たて看板の横を通り二人は中に入った。

これが私の「ライブデビュ」の日の情景である。確か中学校1,2年生だったと思う。「山平和彦」って誰?言う人は「マイ・ペース」をバックバンドとして引き連れていたフォーク歌手で分かるかな?「マイ・ペース」って誰?って言う人は説明を諦めます(^_^;)知りたい人は自分で調べて下さい。

丁度このライブで、このバックバンドの「マイ・ペース」が『東京』と言うシングルを出すことになったことの紹介がありました。何でも初回プレスが数万枚もあって、「私を追い抜いて〜今週のベスト10〜などに紹介されるようになるかもしれません、本当に恐ろしい世の中です」と山平和彦がMCで語ったの鮮明に覚えています。

で、「山平和彦」を私もちょっと調べてみました。最近復活したようです。結構メッセージ性の強い歌だったという覚えがあります。今年「山平和彦 BOX」という4枚組CD(復刻版)が発売されたようです。

「初めて行ったライブ(ライブデビュ)がこの後のその人の音楽の趣味に大きく影響する」と言う話をラジオで聞いて「ライブデビュ」の記憶を辿ってみました。その後の音楽の趣味に影響は無いような気がするが・・・

  • 訃報を聞いて追記-

3年前に歌手活動を再開したという記事を見て、もし機会があれば「ライブ」を聞きに行こうと思っていたのに本当にひょんな事から「山平和彦」を思い出し、このコラムを書いた3日後(コラムは日曜日に書いたので)にこんな悲しいニュースを聞くことになるとは・・・ご冥福をお祈りします・・・。